第31話 決意と決別
病院の窓のカーテンが、ほんの少し冷たい風を運んできた。 まだ冬の最中だというのに、今日は珍しく窓を開けると心地いい陽気だった。 あれから1週間が経った。 しかし、椿はあの日から一度も目を覚まさない。 現世と冥府の狭間で椿が倒れたことによって動転する俺たちを現世まで送り届けてくれたのは、あの自称星弥の式神であるスイだった。 スイは俺たちをなぜか土御門の家の庭においてそのままどこかへ行ってしまった。 ただ、スイの選択は正しかったと今なら思える。 土御門の家には常駐医師がいたため、思いのほか早く椿を病院に運ぶことができた。 まぁ、その手続きを全てやってくれたのが土御門当主……俺の母親なのだから、正直驚いた。 ここは陰陽師たちが霊力に異常をきたしたときに通う専門の病院だ。 この場所だからこそ、椿は今こうしてかろうじてではあるが生きているのだろう。 俺の目の前で眠る椿の体のヒビは、日に日に増えていった。 食事ができないために点滴で無理矢理栄養を取る日々。 霊力が枯れ果てれば椿は砕けて死ぬ。 だから、俺は自分の霊力を毎日のように椿に分け与えた。 ただ、それも椿に迫り来る死に対して、ささやかな抵抗をしているに過ぎない。 どんなに霊力を与えても、椿の体はひび割れた花瓶のようなものだ。水を入れても、少しずつ漏れ出してしまう。 そしてそのヒビは日に日に広がっている。 もう、長くはないだろう。 陵牙たちはそんな椿の状況を知っているからこそなのだろう、毎日学校が終わると病院に通ってきていた。 皆言葉は少ない。ただ、今日も椿が生きている。それを確認すると安堵したようにため息をついているのが分かった。 だが、皆思っていることは一緒だろう。 もし、この状況で椿が死ねば、俺たちは何のために戦ったのか分からなくなりそうだった。 日本という国を救ったのは事実だ。 多くの人々を救ったのも事実だ。 だが、目の前にいるたった一人の大切な者が、俺たちは守れなかった。 茨木のときと同じだ。自分たちには何もできないまま、椿に全てを背負わせて見ていることしか出来なかった。 この1年、自分たちは皆変わったと……いや、椿の影響で変われたのだと思っていた。 そのはずなのに、導き出された結果は1年前となんら変わりなかった。 そうか、それはそうだ。 俺たちは1年前も今も、椿に甘えていたのだ。 椿が、どんな思いで日々を過ごしていたかも知らずに…… 『お父さん!! お母さん……!! 寂しいよ……』 両親を見て泣く椿を思い出すたびに、俺はまるで責められているような気がしてならなかった。 俺があの時しっかりしていれば、今頃椿は両親と笑って日々を過ごしていただろう。 俺は、自分の不甲斐なさ故に椿からそんな日々を奪ってしまった。 それどころか、椿に寂しい思いをさせたくないと思っていたのに、酷く傷つけてしまった。 「雅音様、ちょっとお顔が疲れていらっしゃいますわよ? お休みになられたほうがいいんじゃないんですの?」 「いや……いいのだ」 椿の枕元に座った小鳩が、俺を見上げて言った。 「ここ1週間、ほとんど睡眠を取っていらっしゃらないんですのよ?」 「それはお前とて一緒だろう」 「私は鬼ですもの。人間とは体の作りが違いますわ」 「ああ……だが、眠ってしまったら椿がその間にいなくなってしまいそうで怖いのだ」 「雅音様……」 目を逸らせば、いつでも俺の手から零れ落ちてしまう。 それが清村椿という娘なのかもしれない。 そうだ、椿は俺が目を離すといつもいなくなってしまう。 ちゃんと捕まえていてやらないと、まるで風船のようにふわりとどこかへ行ってしまう。 だから、俺は椿から目を離すのが怖かったのだ。 ―――コンコン。 ドアのノックの音が聞こえた。 時計を見れば、いつも陵牙たちが来る時間より少し早い。 一体誰かと振り返ってみると、それは意外な人物だった。 「こんにちは」 「……牡丹」 牡丹は手に小さな花束を持って病室に入ってきた。 やはり、海松橿姫に取り憑かれていない牡丹は昔となんら変わりない、すぐに牡丹だと分かるくらいに澄んだ笑みを浮かべている。 「椿ちゃん、容態は?」 「変わらない……いや、日に日に悪化しておる」 「……そう」 牡丹は複雑そうな表情で椿を見た。 そういえば、実質上牡丹は10年前に行方不明の扱いになったままだ。 ということは、いまだに牡丹は俺の許婚のまま…… 椿のことに必死で、そんなことも忘れていた。 俺は、何一つけじめをつけていないのだな。 椿が最後に牡丹を俺に託したのは、俺のそんな中途半端な気持ちに気がついていたからなのかもしれない。 そうだな……俺の生涯の伴侶はお前だけでいい。 今のままでは、お前が戻ってきても悲しませてしまうだけだ。 「牡丹」 「うん?」 「話がある。少し表に来てくれんか」 「はい」 俺は病室を出るときに、一度椿を振り返った。 次にこの病室に戻るときは、俺はもうお前だけのものだ。 だから、椿…… どうか俺を置いていかないでくれ。 しかし、俺はまた馬鹿をやってしまったのだ。 目を離してはいけないと、自覚していた矢先…… 本当に、どこまで行っても俺は大うつけだ。 病院の庭先は驚くほどに静かだった。 俺と牡丹以外は誰もおらず、ただ風が静かにそよいでいた。 「雅音さん、話って何?」 「………」 俺の胸には様々な思いが交錯していた。 牡丹を愛していた頃の自分、牡丹が俺を愛していないと知ったときの自分、そして牡丹を失った後の自分。 失うことを恐れて、半端な恋愛しか出来なかった自分。 俺は、牡丹を失った後、適当に女と付き合った後に思っていた。 もう、別に女などいらないと。 一人でいても、なんら不自由はないのだと。 例え牡丹が戻ってきても、俺のものにはならないと分かっていた。 牡丹の瞳の先にいたのは、いつだって俺ではなかったのだから。 あの微笑みは…… 愛情ではなく、同情だったと、俺は知っていたのだ。 そんな中、真っ直ぐに俺だけを見つめ、俺だけを求めてくれたのが椿だった。あいつは、俺に対して同情でも哀れみでもなく、純粋に笑いかけてくれた。 俺は椿のあの笑顔が好きだった。 なのに、俺が傷つけた。 俺が奪ってしまった。 椿から、幸せも笑顔も…… 「牡丹」 俺は、椿だけを愛している。 もう過去の亡霊に取り憑かれて椿を傷つけることは二度としない。 「俺との許婚の関係を、取り消してくれ」 「!」 そう、俺と牡丹の関係は十年前から止まったままだ。 何も変わっていない。 親に決められた、わけも分からずに押し付けられた許婚の関係。 俺はその関係に今日、終止符を打つ。 牡丹は驚いたように目を見開いていたが、すぐにその目を閉じて口元に笑みを浮かべた。 その笑みは、安堵……とにかく卑下たものではない。 「よかった」 「なに?」 「あなたの口から、その言葉を聞ける日が来て」 「牡丹……」 牡丹は俺を見上げて言う。 「あなたが自らの意思で人を愛せるようになったことが、私は嬉しい」 「それは全て、椿のおかげだ」 「そう……そうかもしれないわね」 牡丹は空を見上げて、何かを思い出すような表情をしていた。 「海松橿姫に取り憑かれた私の意識に、彼女はずっと語りかけてきてた」 「!?」 「剣を交えている間、彼女は私の名前を呼び続けていた。帰ってきて牡丹さん、あなたがいないと、雅音さんが悲しむ……って」 馬鹿な……椿……お前はどこまで……!! 「その声は、泣いているようにも聞こえた。彼女、自分が六合と天空を使ったらどうなるか、分かっていたのね」 「椿……!」 俺は拳を握って歯を食いしばった。 椿は、最後まで俺のことを……俺の気持ちを汲んでいたというのか……!! 俺の見えない、感じない場所で、牡丹までもを救おうとしていたというのか!! 「いい子ね……」 「ああ……あんな娘は、どこを探しても他にいない……俺の最愛の、一生に一度しか出会えない女だ」 「うん。雅音さんがそうして感情を表に出せるようになったのも、彼女のおかげなのね」 「……?」 牡丹は俺にハンカチを手渡す。 俺には意味が分かっていなかった。 「涙」 「……!!」 俺は、泣いていた。 椿が俺にとってどうしようもなく大切だと再確認したせいだろうか。 無意識に俺の目から涙が零れ落ちていた。 「雅音さん」 「……?」 牡丹は俺を真っ直ぐに見つめた。 初めてかもしれない、牡丹が俺だけをこんなに真っ直ぐに見つめてきたのは。 「許婚解消の申し出、謹んでお受けいたします」 「牡丹……」 「ありがとう、雅音さん」 「……天音を、頼む」 「はい」 全ての話が終わり、俺の胸は軽くなった。 それはそうだろう。 今まで背負っていた牡丹への迷いという荷物を降ろし、やっと俺は椿だけを愛することができるようになったのだから。 ――――ブブブッ! ブブブッ!! そのときだった。俺のポケットの携帯が勢いよく震え始める。 「もしもし?」 『まっちゃんか!? 今どこにおるん!!』 陵牙だった。 とてつもなく慌てた声で、俺の居場所を聞いてくるその様子はとても尋常ではない。 「どうした?」 『椿ちゃんが……椿ちゃんが!!』 俺は走った。 看護婦が院内は走るなと叫んでいるのが聞こえたが、そんなもの聞いていられるか!! 椿……お前はいつもそうだ…… 俺が目を離すと何故……何故……!!!!!! ガラッ!! 病室の戸を開けると、病室のカーテンが風にそよいでいた。 目の前に広がるのは、誰も寝ていないベッド。 陵牙たちはそれを見て、複雑な顔をしていた。 「椿は……?」 「俺たちが来たときにはもう……もぬけの殻や」 椿、お前はどうして俺が目を離すとすぐにいなくなってしまうのだ……? どうして……お前は一体どこへ消えた? 椿…… 俺は絶望して、地面に思わず膝をついてしまったのだった。 |