愛しき想い
厚い雲に覆われた、嫌な天気の日だった。 俺は母である土御門当主に連れられて、世間では身投げの名所とも呼ばれている東尋坊に来ていた。 実の弟が、自分の許婚とここで身投げをしようとしていると聞いたときには心穏やかではなかった。 ただ、このときの俺は、感情表現というものができなかった。 今でさえそこまで表情を顔に出すのは得意ではない。 能面とかポーカーフェイスとか言われるが、どう表情を変えてよいのか分からなかったのだ。 将来当主となるものは、表情を表に出してはならないと、言い聞かされ続けてきた。 それが俺には普通になってしまっていた。 弟と許婚が、現状を嘆いて身を投げようとしているのに、そのときの俺は、表情一つ変えずにその光景を見ていた。 嫌な記憶だ。 『天音、いい加減になさい。身投げなどして、何の意味があるのですか』 『母上に何がわかるんですか!! 僕の気持ちも、牡丹の気持ちも何一つ聞こうとしてくれないくせに!!』 『聞く必要などありません。私に従えばあなたたちだって間違いはないのですから』 本当に傲慢な人だ。 自分のすることに間違いがあるなどとは、これっぽっちも思っていないのだろう。 『牡丹さんは雅音さんと結婚させます。それが一番彼女のためにもなる。彼女の幸せに繋がるのです』 その言葉に天音は俺のほうを向いた。 睨むように、憎むように天音は俺をじっと見据えてはき捨てるように言った。 『この人が牡丹を幸せに? はっ、ふざけないでください! こんな人としての感情が欠落した、人形みたいな人に牡丹が幸せにできるもんか!!』 怒る気にもなれなかった。 天音の言っていることは、全て事実だったからだ。 むしろ、そんなことを言われても、怒りの念すら覚えなかったのだから、俺は十分に異常と言えただろう。 結局、牡丹は俺たちの目の前で身を投げてしまった。 あの表情は笑っているようにも思えた。 でも、泣いていたのかもしれない。 10年も前の記憶だ、正直おぼろげなのだ。 あれは……俺のせいだったのか? 俺がもっとしっかりしていれば、お前は今頃天音と幸せになれていたのだろうか? 柔らかく笑う牡丹が好きだった。 辛いとき、隣に座ってくれた牡丹が好きだった。 自分が辛くても、笑顔でいてくれる牡丹が好きだった。 でも、その牡丹は俺のせいで苦しんだ。 『こんな人として感情が欠落した、人形みたいな人に牡丹が幸せにできるもんか!!』 「!!!!!!!!!!」 ふと、意識がまどろんだ世界から引き戻された気がした。 目を開ければ、俺は自室のベッドの中だった。 額に手を当てたら、ひどく汗をかいている。 確かにあれは悪夢だ。 当時愛していた女が、崖に落ちていく光景など、2度も3度もみたいものではない。 俺は小さく息を付いて、起き上がろうとした。 そこで何かに腕を引っ張られる感覚に、視線をそちらに移した。 「うう〜ん……ましゃねしゃん……むにゃむにゃ」 そこには幸せそうに眠る、今の婚約者である椿がいた。 鬼斬の娘として生まれてしまったが故に、白い髪に赤と青のオッドアイという姿をしたこの娘に、俺は今心底惚れている。 「わー……おいしそー……いただきまーす……」 「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!」 その寝言の直後、俺の腕に激痛が走る。 見れば、何か食べ物と勘違いしたのか椿が思い切り俺の腕に噛み付いていた。 「うー……うまー……」 見れば椿の歯型がくっきり腕に残って「こ」の字になっていた。 「まったく……俺の腕は食い物ではないぞ」 俺は椿にきちんと布団をかけてやり、頭を何度か撫でた。 白く細い髪は、俺の指をするりと抜けていく。 「無防備なものだ。それだけ、俺を信用してくれておるのか?」 頬を撫で、問いかける俺に椿はもちろん答えない。 気持ちよさそうにただ寝息を立てて、時々俺の名前を呼ぶ姿が妙に可愛らしい。 俺が椿に心を奪われたのはいつのことだっただろうか。 初めて会ったときは、朝っぱらから鬼を背中に3匹も背負った珍しい娘だと思った。 まぁ、同じクラスに転校し、様子を見ていてなぜ椿が鬼をあんなにも背負っていたか、すぐに疑問は解決したわけだが。 あの当時、椿をひどく憎んでいた賀茂深散。 今は椿の親友というのだから、おかしな話だが、とにかくその賀茂が、椿に対して鬼を憑依させていたのだ。 まったく、すぐにでも陰陽師協会の会長としての権力を行使してしょっ引いてやりたいところだったが、茨木童子奪還の仕事が入っていた故に俺は下手に動けなかった。 茨木童子は土御門の管轄の特別危険指定妖怪だった。 協会の会長である俺自ら動いた理由は、今回の件が土御門がらみだったためであることが大きい。 下手をすれば、一般人を金儲けの商品としか考えていない土御門が権力を使って一般人を危険に巻き込む可能性も否定できなかった。 だからこそ、俺自ら動かねばならなかった。 思えば、椿が気になり始めていたのは、弁当をもらったその日からかもしれない。 俺は人に手作りで弁当など作ってもらったことがなかった。 椿がくれた弁当は、一品一品手作りで、温かくて、とても美味かった。 俺に、鬼を祓ったり呪詛を解いてやる礼といって、椿は毎日のように弁当を作ってきてくれるようになった。 椿と日々を過ごす間に、俺は少しずつ椿に心を惹かれていった。 自分の境遇に負けずに、自分を貫く姿が、俺には魅力的に感じた。 椿は俺にないものをたくさん持っていた。 土御門の言いなりだった自分にない、"己"というものを俺は椿の中に見出していた。 ただ、俺には茨木奪還の任務があった。 何より……俺は牡丹を失った過去から開放されていなかった。 椿を安全牌と思うことによって、俺は自分の心の平静を保っていた。 しかし、小鳩から椿が賀茂の手によって大江山の崖に突き落とされたと聞いた日、俺の頭には牡丹が行方不明になったあの日の記憶が鮮明によみがえった。 また俺は失うのか……? そう思ったら気が気ではなかった。 大江山で対峙した椿は、いつもと全てが違っていた。 茶染めの髪は真っ白に染まり、深い茶の目は、左右対称の赤と青のオッドアイ。 何より、いつも強気で、どんな嫌がらせにもめげない椿の表情が、このときだけは恐怖にゆがみ、震えていた。 俺はこのとき、自分の心が男になったのを強く感じた。 俺はこの女が欲しい。 思えば、牡丹を失ってからこんな気持ちになったことはなかった。 相手の強い押しに負けて何度か女と付き合ったことはあった。 しかし、長続きはしなかった。 誰にも知られないほどあっという間か、そうでなくとも半年も付き合いが続かないような相手ばかりだった。 俺がさめた態度しか取らないのと、癖のある人間なのが耐えられなかったのだろう。 自分から、こんなにも誰かを求めたのは初めてだ。 ここからは自分を抑えるのが手一杯だった。 その後、小鳩から大江山で椿が陵牙に会った話を聞き、茨木奪還の手助けをさせることを思いついた。 やつだけでは不安だったので蒐牙も一緒に呼びつけてやったが、まぁ結果的には正解だったようだ。 二人は椿を守るという点でも、茨木奪還に情報収集においてもよく働いてくれた。 しかし、俺は未熟者だった故に椿を傷つけてしまった。 茨木が憑依していたのは椿の幼馴染の藤原星弥だった。 椿の周囲にいるものを執拗に狙い、傷つける星弥の行動を見て、俺はこのままでは椿の身が危険だと判断した。 早急に茨木をどうにかしなくてはならないと思って俺たちは椿と距離を置くことを決めた。 俺の判断の半分は当たっていた。 俺や陵牙が椿から距離を置いたことで、星弥は椿と仲がよかった陵牙だけを狙うようになった。 星弥の行動を監視する限り、毎日家の前から椿の部屋の様子こそ伺ってはいたが手出しはしなかった。 しかし、結局俺は詰が甘すぎた。 まさか、茨木が陵牙だけでは飽き足らず、椿の両親にまで手を出すとは予想もしていなかった。 俺は椿から両親まで奪ってしまったのだ。 そして椿自信も…… 嫌な記憶を引っ張り出され、俺は胸がぐしゃぐしゃとかき回されるような感覚に陥った。 不安になって椿のほうを見ると、相変わらず椿は俺の手を握ったまま気持ちよさそうに寝息を立てている。 頬に触れると、やわらかくて温かくて、何よりも目に入る椿の寝顔はとても可愛らしかった。 「椿……」 掠めるように口付けると、くすぐったそうに椿は表情を変えたが、すぐに俺の手に頬摺りをしてくる。 そのしぐさが、死ぬほど可愛いと思ってしまうのだから、俺も相当やられている。 「この大馬鹿者」 俺は椿を抱きしめて耳元で囁く。 きっと、この囁きは椿には届かない。 けれど、それでも、俺は伝えたくて仕方なかった。 「愛しておる。だから、もう二度と俺の手から零れ落ちんでくれ……」 命と引き換えに悪鬼を滅したあのときの、体温も、吐息も、笑顔をも何もかもを失って、人形のように色を失った椿を思い出すと、俺はいつも怖くてたまらなかった。 もう二度とあんな思いだけはしたくない。 そうだ、俺は椿を失ったらきっと生きていけない。 今の俺には椿がすてべだ。 陰陽師協会会長の立場など、椿を守るための道具にしかすぎん。 俺やっと見つけたのだ。 どんな境遇に立とうとも"己"を貫ける、たった一つの大切なものを…… ****************************** 「雅音さーん、おっはよー」 「うん……ああ、もう朝か」 「うんうん、今日は日曜日だからもう少し寝る?」 「いや」 もう支度をすっかり整えて部屋着になった椿の腕を俺は引っ張った。 「今日はめいいっぱい椿を堪能するかのう」 「ちょ、ま、雅音さん!?」 「くくく、冗談だ。だが少しだけ、抱きしめさせてくれ」 「雅音さん……」 静かに俺の胸に顔を埋める椿を俺は抱きしめた。 二度と、俺はお前を失いたくはない。 この温もりを、この吐息を、お前の全てを…… この先も俺の全てをかけて守っていこう。 |